慢性的憂鬱

人生に安酒と本と憂鬱を

OK Google:愛とは

「愛はどんな形ですか?」

と聞かれたら何て答えるだろう。

私は近頃そればかり考えている。

同性愛が世界的に認められ始めたり、ジェンダーレスなど性の多様化が進んだり、はたまた”恋愛しない結婚しない”人たちが増えたり、驚くほどに少しずつ世界は変わり始めている。愛の形を枠にはめることはナンセンスな時代なのだ。

だからこそ私は「愛の形」というものを考えてしまう。愛とはそもそも何だろうか。

辞書を引いてみると、

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」
キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
仏教で、主として貪愛 (とんあい) のこと。自我の欲望に根ざし解脱 (げだつ) を妨げるもの。

こんなに多くの「愛」の解釈が現れる。

果たして正解はあるのだろうか。

考えてみると私たちは生まれながらに愛というものの存在に悩まされる。「貴方はお父さんとお母さんの愛の結晶なのよ」「貴方を愛しているから怒るのよ」「愛してるから心配してしまうの」

愛も分からない子どもにそう大人は囁く。じゃあ見放された子どもたちは愛の結晶ではないのか。ただの生まれてきてしまった人間の一人にすぎないのか。

愛しているとはなんて厄介な言葉だ。

ありがちな経験談ではあるが小さい頃、母のつくるミートスパゲティが美味しいのはなぜかと母に尋ねるとお決まりのように「愛情が入っているからよ」と微笑まれた。他人にとっては何でもないようなミートスパゲティこそが母にとっては「愛の形」であったのかもしれない。

中学生の頃、学校に行かなくなった時期があった。母は無理やりでも行かせようと私を毎朝怒鳴ったが、父は心底悲しそうな顔をして「学校に行かなくてもいいよ。当分休もう」と言って、その夜は私の大好きな食べ物をたくさん買ってきてくれた。その次の週から私は少しずつ学校に行き始めた。とても寡黙で昔気質の父だったけど思えばそれが父の「愛の形」だったのかもしれない。

ストレートに言葉で伝えることも愛であれば、嘘をつくことが愛であることもある。どんなことがあっても手を離さないことが愛であれば、手を離すべき愛もあって。生きてと励ますより、毒を渡すことが生きる活力になるかもしれない。

愛はいくらでも形を変えて、私たちの前に立ち塞がり、時には”正しくはない”方向へ繋いでいく。でも確かにそこには愛がある。愛があるからこそ、私たちは苦しみ涙を流す。”正しくはない”道が暗闇でもそこに生まれる愛は美しいと私は思う。笑顔に溢れ、明るい光に包まれた愛だけが愛ではない。陰からさす愛に支えられる人もいるのだ。 

私はまだまだ「愛」というものが分からない。もしかすると愛は果てしなく広く大きいもので、きっと一生かけても分からない形をしているのかもしれない。だからこそ、誰もが追い求め、醜くも美しくもなるのだろう。私もいつか出会うのだろうか。愛の形に気付くのだろうか。その時がきたら、私は愛をどんな形で表現するのだろう。もし小っ恥ずかしいことをほざいていたら、このブログを私に突き出して欲しい。未来の私よ、愛はどんな形ですか?