慢性的憂鬱

人生に安酒と本と憂鬱を

表と裏

親を殺したいと思ったことはあるだろうか

または殺したいと思うほど誰かを憎く思ったことはあるだろうか

私はある。親を大切で愛してるのと同時に殺したくなるほど憎いと思うことが何度もある。

一度でも殺したいと思ったことのある人ではないと分からない世界に私は少し足を踏み入れている。知りたくもなかった、知らなくてもいい、こんな世界に。

どうしようもない罪悪感と嘘偽りのない殺意が日々の隙間を狙って私に迫り、時々あまりにも酷くて眠れなくなる。

そういう日々が続くと、それを実際に行動にしたら楽になれるのだろうかとつい思ってしまう。台所にある包丁を遠くからじっと眺めて、手にした紐をきつく手に巻きつけて、ハッと我に帰る。危なかったと引き止めた自分に安心し、何で出来ないんだと落胆する自分にいつも驚く。

そして厄介なのが、そこに愛情が存在することだ。大切だから、愛しているから、親だから、責めることも蔑ろにすることも見捨てることも私は出来ない。

口を揃えて皆こういう「親なんて関係ない、環境のせいにするな」と。日本の殺人事件の55%が親族間で起きているらしい。ここにもまた一つ呪いが存在するのだ。 

私はいつも自分があっち側の人間になりそうで怖いと思う瞬間がある。いつもその一歩手前にいる気がしてならないのだ。

私が思うに、もしかしたら人間は常に細い細い線の上を歩いているのかもしれない。いつでも自分の意思でどちらにも足を落とすことができるし、何かや誰かに背中を押されるかもしれない。

私は落ちないように必死になりながらも、ここではないほうに行ってしまいたいと思う。ただ、細い細い線の上を歩くのをもう辞めてしまいたいと思う。

線の外は常に表と裏のようにぴったりと寄り添いあい、そこに大した違いなんて無くて、あなたが表だと思っているところが実は裏なのかもしれない。

多分これを読んでる人たちの中で、こんなこと他人に言うことじゃないと不快に思う人もいるだろう。たしかにそう思う。自分の心の中で噛み砕き、噛み砕き、粉々にするべきなのだろう。でも私はもう噛み砕きすぎて、あまりにも量が多すぎて、自分が何を見なかったことにして嘘をつけばいいのか分からなくなって、どうにでも出来ないときが多くなってしまった。

だからこうやって言葉にして、まるで綺麗事のように昇華してみるのだ。うっかりあっち側に落ちてしまわないように慎重に血を滲ませながら言葉にしてみるのだ。

親という呪いから解き放たれ、よく眠れる日が来るその日まで、私はこうやって言葉にする。哀しみにも憎しみにもならない、残された感情を、一つずつ。

Oh my 20 day

 

二十歳の成人式に行かなかった私は成人式を迎えるその日、初めて自動販売機の裏で吐いた。

焼肉の食べ放題で食べすぎたからだ。いつも二人前以上を平らげるのだが、何故だか無性に胃が痛くなり帰り道に吐いた。盛大に。人生で初めて。2018年、記念すべき初ゲロ。

吐いてるときは苦しいのやら虚しいのやら面白いのやらでよく分からない感情だった。

吐き終わったあとは当たり前のようにすっきりとして、私の今までの人生の毒を少し吐き出せたかのような気待ちになった。もちろん気持ちだけだ。

妹と馬鹿みたいに肉を喰らい、「あの子がもう二十歳なんだねえ」「お前もな」とまるで他人事のようにダラダラと話した。

成人式に行かなかったのは、もちろん会いたくない人が沢山いる、行く意味が見出せない、振袖を着るお金があるなら旅行に行きたい、という私の超個人的な理由もあるし、ただ単純に自分が成人だという自覚が未だに無いから他人事のようにいられるのかもしれない。いや成人したことを受け入れたくないから、成人式という華やかな祭り事に惹かれないのかもしれない。

まあどうでもいい、私は行かないということだけだから。SNSやラインで流れてくる沢山の振袖を着た友人たちがとても綺麗で、みんなもれなく綺麗で、羨ましいかと言われたら、羨ましいとは思わない。ただみんな美しいなあと思う。本当に純粋に美しいなあと。

馬鹿みたいに騒ぐ見知らぬどこかの新成人たちも、朝から頑張って綺麗に着飾る女の子たちも男の子たちも、成人式に行かないと決めた子たちも、何となく行かなかった子たちも、行きたくなかった子たちもみんな、私からしたらうざったいくらい輝いていて、少し心がザワザワと音がする。ときめきに近いけどもう少し遠くにある違う何かが騒めく音が。

成人だろうがなかろうが、式に出ようか出まいが、この先の人生に何の影響も与えやしないし、行ったか行ってないかの事実しか残らないだろう。そこで出来る思い出たちだけが後に残るだけだろう。

私はただ、私が愛する全ての友達がこれでもかってくらい幸せに囲まれて、私が大嫌いなひとたちがみんなより少しずつ多くの不幸を覚えていけばいいなと思う。

私は私なりの覚悟を決めて、私は私なりの二十歳を見つけて、後悔も未練も惜しまず、何ものからも自由になることを諦めない。

死ぬことも生きることも進めないなら、そこに人生なんてありはしないのだ。

数年ぶりにゲロを吐いた自分に少し笑いながらこのブログを書いてみた。なんだこいつって思いながら読んでくれたら本望だ。

 

新成人の皆様、そして私、おめでとう。クソみたいな大人になるんじゃねえぞ

OK Google:愛とは

「愛はどんな形ですか?」

と聞かれたら何て答えるだろう。

私は近頃そればかり考えている。

同性愛が世界的に認められ始めたり、ジェンダーレスなど性の多様化が進んだり、はたまた”恋愛しない結婚しない”人たちが増えたり、驚くほどに少しずつ世界は変わり始めている。愛の形を枠にはめることはナンセンスな時代なのだ。

だからこそ私は「愛の形」というものを考えてしまう。愛とはそもそも何だろうか。

辞書を引いてみると、

1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」
キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
仏教で、主として貪愛 (とんあい) のこと。自我の欲望に根ざし解脱 (げだつ) を妨げるもの。

こんなに多くの「愛」の解釈が現れる。

果たして正解はあるのだろうか。

考えてみると私たちは生まれながらに愛というものの存在に悩まされる。「貴方はお父さんとお母さんの愛の結晶なのよ」「貴方を愛しているから怒るのよ」「愛してるから心配してしまうの」

愛も分からない子どもにそう大人は囁く。じゃあ見放された子どもたちは愛の結晶ではないのか。ただの生まれてきてしまった人間の一人にすぎないのか。

愛しているとはなんて厄介な言葉だ。

ありがちな経験談ではあるが小さい頃、母のつくるミートスパゲティが美味しいのはなぜかと母に尋ねるとお決まりのように「愛情が入っているからよ」と微笑まれた。他人にとっては何でもないようなミートスパゲティこそが母にとっては「愛の形」であったのかもしれない。

中学生の頃、学校に行かなくなった時期があった。母は無理やりでも行かせようと私を毎朝怒鳴ったが、父は心底悲しそうな顔をして「学校に行かなくてもいいよ。当分休もう」と言って、その夜は私の大好きな食べ物をたくさん買ってきてくれた。その次の週から私は少しずつ学校に行き始めた。とても寡黙で昔気質の父だったけど思えばそれが父の「愛の形」だったのかもしれない。

ストレートに言葉で伝えることも愛であれば、嘘をつくことが愛であることもある。どんなことがあっても手を離さないことが愛であれば、手を離すべき愛もあって。生きてと励ますより、毒を渡すことが生きる活力になるかもしれない。

愛はいくらでも形を変えて、私たちの前に立ち塞がり、時には”正しくはない”方向へ繋いでいく。でも確かにそこには愛がある。愛があるからこそ、私たちは苦しみ涙を流す。”正しくはない”道が暗闇でもそこに生まれる愛は美しいと私は思う。笑顔に溢れ、明るい光に包まれた愛だけが愛ではない。陰からさす愛に支えられる人もいるのだ。 

私はまだまだ「愛」というものが分からない。もしかすると愛は果てしなく広く大きいもので、きっと一生かけても分からない形をしているのかもしれない。だからこそ、誰もが追い求め、醜くも美しくもなるのだろう。私もいつか出会うのだろうか。愛の形に気付くのだろうか。その時がきたら、私は愛をどんな形で表現するのだろう。もし小っ恥ずかしいことをほざいていたら、このブログを私に突き出して欲しい。未来の私よ、愛はどんな形ですか?

大人の定義と嘘の倫理

 

私はいつからこんなに嘘をつくが上手になったのだろう。

気付いたら、自分を守るために数えきれないほどの嘘をたくさんついていた。その嘘 ひとつひとつは決して大きいものではなく、どれをとっても取るに足らない小さい嘘だ。ただ少し罪悪感を抱えながらも、私は嘘をつけるようになってしまった。それはもう、とても上手く。

その嘘が誰かを傷つけるものではなくても、嘘を重ねるたびにどこか今まではいなかった汚くて見たこともない黒い何かが育つ気がした。

幼いころ 誰しも親や先生に叱られる時、「嘘はいけません。正直でいなさい。」と教えられた経験があるだろう。でもその教えは小学生に上がるころには守れないことを悟る。何故なら、正直でいればいるほど損をするからだ。上手に嘘をつける子ほど 世渡り上手で嫌なことをヒョイとかわしているのだ、と私たちは幼いながら無意識の中で悟る。

中学生にもなれば、そこは嘘を重ねる練習場と言っても良いほど、私にとってそこは嘘をつくか見抜くかの場所であった。よくある例でいうとテスト期間中に「全然勉強してないよ〜やばい〜」という子に限って良い点数をとったり、「あの子が悪口いってたよ」とありもしない因縁をつけられたりすること 等々。そんな嘘たちに沢山攻撃されたお陰か、嘘を重ねること と 見抜くことを覚えた。簡単に人を信じてないけないと悟り、本当のことを言うほうが少なくなった。

そこから高校を経て、社会に出た。私が想像していた以上に社会ではもっとたくさんの嘘が必要だった。上司というだけで嘘を真実にかえ、真実を嘘にかえられる という事実に心底怯えた。

もっと怖かったのは、正直に真面目に仕事をすればするほど、周りは笑い、もっと手を抜きなよと軽蔑されることだった。なぜ頑張ることがいけないのか、真面目すぎて迷惑をかけたのだろうかとよく悩んだ。今もそうだ。

これはたぶん私が一生付き合っていかなきゃいけないことなのだろう。

嘘をつかなきゃ上手く笑えもしない社会、正直でいることが命取りになる社会。これが未来ある子どもたちにに待ってるものか、と私はまだまだ子どもながらに肩を落とした。嘘をついてはいけないとは私も思わない。でもそこに混じる悪意がどうしても私は馴染めないのだ。

大人の定義と嘘の倫理。

上手に嘘をつけるようになるのが大人なら、私は一生子どものままでいい。

「嘘はいけません」と教えるくらいなら、上手く嘘をつく方法を教えてください先生。

 

嘘をつくのが上手くなった人も下手な人も、とびきり甘くて透明で優しい色をした誰も傷つかない嘘をつけるようになりますように。

 

以上、生き辛い社会からの駄文です。

失礼しました。

死ぬよりは生きていようか

死にたい、という言葉を聞いた時のショックは何度 経験しても慣れない。慣れないし、聞き流せない。それは私が慈愛に溢れてる訳でも、心優しい訳でもない。ただ、その「死にたい」という言葉に込められた様々な思いに打ちのめされてしまうからだ。

そんな私も時々軽々とその言葉を口にしてしまう。何か失敗をしてしまったり、誰かの悪意に触れて傷付いてしまったとき、本当に簡単にまるで「コンビニに行ってくるよ」と同じような軽さで私はそれを口にしてしまう。死ぬことはそんな簡単ではないはずで、命を大切にすることは生まれてから一番最初に大人たちに教え込まれることなはずで、死を恐れて生きることがきっと正しいことである。

いつからこんなに「死」は軽く、選択しやすいものになってしまったのだろうか。本当に簡単に私がそれを口にするときと同じように、まるでコンビニ行くように、死を選ぶような人たちが増えているのだろうか。それとも、死を選ぶしかないような選択肢しか目の前にない子たちが多いのだろうか。

いや、きっと、どれも少しずつ違う。みんな生きていく辛さより、死を選ぶ重さのほうが簡単だと知っているからだ。例え、その死にたいが冗談でも、簡単に言ってしまえるほどに死ぬことは簡単で、そして楽になる方法だと誰もが知っているからだ。そして私は、それが間違いではないとは言いきることが出来ない。

死んでしまいたいと思うことは山ほどある。死より老いが怖い、生きていることの単調さにいつまでも馴染めない、いつもどこか憂鬱で死という選択肢をいつも横に置いている。

でも、それでも私は生きていようと思う。

何のために生きているか分からなくても、大切な人の香りが思い出せるうちは生きていよう。

他人の悪意に触れて傷付いてしまっても、瞳にうつる美しいものたちがそこにある限り生きていよう。

幸か不幸か、私たちはこの世界に人間として生まれた。さらに幸か不幸か、どんな運命を辿るかは分からない。他の子たちが死を選ぶ重さを選ぶのなら、私は生きる辛さを選んでみよう。

いま、その選択肢に立たされている子たち、どうか見ていて欲しい。生きる辛さを選んだ私の運命を。

だから、死ぬよりは生きていようか。